結の島ナースを終えて、瀬戸内徳洲会病院で感じたこと(東京都出身 看護師8年目)
前回の記事:結の島ナースを終えて~奄美大島:瀬戸内編~ / 結の島ナースを終えて~与論編~の続編になります
瀬戸内徳洲会病院は名瀬中心部より車で約1時間弱南下したところにあります。
山と海に囲まれた自然豊かな瀬戸内町は、名瀬や笠利とはまた違った景色で本当に癒されます!
運が良いと、病院の窓からクジラを見ることもできます。
また、夜は決まってリュウキュウコノハズク(フクロウ)の鳴き声が、静かに穏やかに瀬戸内町に響き渡ります。
夜中の仮眠休憩では、窓を開けて眠るとそんな自然の生き物たちの鳴き声を聞きながら眠りにつくことができました。
東京ではビルが立ち並び、小さな空の下、窓もない休憩室で身体を小さくしてソファの上で束の間の仮眠をとっていたのを思い出すと、私にとってここは仮眠休憩さえも最高に贅沢な時間でした。
瀬戸内町は小さなコミュニティのため、数カ月働いていると患者さんもだいたい顔なじみになってきます。
その中で、特に忘れられない患者さんが2人います。
1人は、60代の白血病の男性患者さん。ADLはフリーですが、病状悪化に伴い鹿児島の大学病院に転院搬送、しかしすぐに瀬戸内に戻ってきていました。
「大好きなこの島で最後のんびり暮らしたいんだ。」本人の強い意志のもと、鹿児島から奄美大島へ戻ってきました。
輸血も週3回行わないと命が危ぶまれる状況。しかし輸血は本島から飛行機で運ばれてくるため、台風などの悪天候で輸血が数日届かないこともしばしばあります。
そんな状況下でも、「島に帰りたい」という彼の強い思いに心打たれました。
私は父の仕事柄転勤が多く、地元という地元がなかったため、そんなに地元が好きと言えることがとても羨ましくも感じました。
同時に、必要なときに輸血を行えるのが当たり前だと思っていた環境から、天候で輸血が届かず、命が危ぶまれるという状況が日本にあるのかと、かなり衝撃を受けました。
これは陸続きの内地ではなかなか体験できない状況だと思います。
最後の葬式は親族・友人たちが多く集まり、彼らしい笑いの絶えない時間だったと伺いました。
瀬戸内町で生活していると、患者さんやその親族の方に「お世話になった看護師さんですよね?あのときは本当にありがとうございました。」と声をかけてくださることもあります。
大きな病院ではその後の様子を聞くこともなく、退院されて終わってしまうことが多いため、瀬戸内病院と島民との距離感は理想的な姿だなと感じます。
もう1人は、90歳後半の女性です。
寝たきりの患者さんですが、食事に対する思いは人一倍強く、誤嚥を繰り返しながらもなんとか経口摂取を取り入れているとき、夕方頃に800mlほどの吐血をしました。
みるみる血圧70まで低下、意識レベルも低下し、手足が真紫になるほどのチアノーゼが出現。
ご年齢も考慮すると処置をどこまでするかの問題も出てきますが、この病院は規模がそこまで大きいわけではないので内視鏡はできてもクリッピング術は行っていません。
輸血もいつもあるとは限りません。名瀬市内の大きい病院まで搬送するにも救急車で1時間ほどかかります。
そう考えた時に、本来内地ではすぐに処置し助かるであろう命さえも、ここでは助からない可能性があるのだということを深く考えさせられました。
また、ご家族も島外に住んでいる方がほとんどで、数少ない便数に乗り込み、空港からさらに2時間かけて車で瀬戸内町に来ることを考えると、やはり離島ならではの困難さが伺えます。
「それでも、この島に住みたい。」そんな島民の思いを叶えるためにも、私たちが今できることをする。
当たり前だけど、それが私たちの役目なのかなと感じます。
幸いにもこの方の生命力が勝ち、一命を取り留めることができました。
島の高齢者の方たちは生命力が強いなというのも働いていて実感することのひとつです。
離島にいると色々なドラマがあります。
今まで当たり前だと思っていた価値観もどんどん壊されていき、その上で「自分はどう思うか?」と振り返るきっかけとなり、自分の考えや価値観がさらに深まっていくなと感じます。
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